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Vol.1608
鉄砧山の日本様式の石灯籠・鉄砧山風景区
鉄砧山 (台中市大甲区) (台湾)


Vol.1610
「大甲の聖人」志賀哲太郎紀念室 (大甲文昌祠内)
大甲区 (台中市) (台湾)



おいらたち好奇心旺盛なキョロちゃんが、いろいろなところを訪れたクェ!!!


Vol. 1609
「大甲の聖人」と呼ばれる志賀哲太郎先生の墓(鉄砧山)
※日本統治時代の遺構
ロケ地
鉄砧山 (台中市大甲区) (台湾)




写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
No.000-01
(参考資料)

【記事】 産経ニュース (2016.3.27 07:06)
http://www.sankei.com/region/news/160327/rgn1603270022-n1.html

(以下、原文のまま。)


産経ニュース
2016.3.27 07:06

熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む

 明治から大正期にかけ、日本統治下の台湾に熊本から渡り、小学校の見習い教員(代用教員)として児童教育に一身をささげた日本人がいた。熊本県益城町出身の志賀哲太郎(1865-1924)で、台湾では「聖人」として敬愛されている。昨年生誕150年を迎えて以後、志賀の功績を後世に伝えようと、台湾、熊本の双方で顕彰活動が本格化している。(南九州支局 谷田智恒)

 志賀は慶応元年に生まれた。青年期に熊本から上京し、法律を学んだ。明治29年に32歳で台湾に渡った。

 その数年後、「教育に情熱を注ごう」と決意し、台中の北西部の街、大甲で、台湾人の子弟が通う公学校(小学校)の見習い教員になった。その後、59歳で死去するまで四半世紀にわたり、現地で子供たちの教育にあたった。

 当時は、教育への父母の理解が得られず、就学率も高くはなかった。そんな中、志賀は日曜日になると手弁当で就学適齢期の子供たちの家を訪ねて回り、根気強く登校を勧めた。

 小学校では、文具を持たない子供たちには自ら買い与えたり、学費が払えない子供には身銭を切ってでも通学させるなど、支援を惜しまなかった。

 そんな努力と誠意はやがて実を結ぶ。出席率や進学率は群を抜き、大甲から台湾各界で活躍する人材を数多く輩出した。

 志賀は台湾の教育界に多大な貢献をした。だが、台湾総督府の官吏による圧政と、台湾人の民族運動の高まりで、両者の板挟みに遭う。思い悩んだ末、大正13(1924)年、入水自殺した。

 教え子らは志賀をしのび、山の中腹に墓碑を建てた。志賀はいつしか「大甲の聖人」と呼ばれるようになった。戦後、台湾にあった日本人墓地は一カ所に移転するため取り壊されたが、地元の住民は志賀の墓を守った。

               ×  ×  ×

 志賀の名前は長らく忘れられていたが、ここにきて熊本県の教育関係者や益城町の間で「郷土の偉人、志賀の人となりを見つめ直してはどうか」と顕彰の動きが持ち上がった。

 昨年秋、郷土史家や熊本の「日台交流を進める会」などと「志賀哲太郎先生顕彰会」を発足させた。

 台湾の高雄と熊本を結ぶ航空直行便も就航し、台湾への関心が高まった。

 顕彰の動きは生誕150年をきっかけに、活発化した。顕彰会は今年2月、先遣訪問団7人が台湾でお墓参りをした。大甲区公所(区役所)を表敬訪問し、教鞭(きょうべん)を執った小学校などゆかりの地を訪ねた。

 顕彰会事務局の折田豊生氏は「現地で台湾の街の文化的基礎を作り上げた、神様のような存在として志賀が語り継がれていることに、驚くほかなかった」と話す。

 帰国後、折田氏らは早速、志賀の一生をたどる冊子作りに取りかかった。5月28日には益城町文化会館で生誕150年の記念イベントを開催することも決めた。

 顕彰会のアドバイザー、県立大津高校元校長の白浜裕氏は「今の台湾が親日なのは志賀ら日本人教育者が一生懸命、子供たちを育てた成果だ。将来、益城町と大甲区の子供たちの交換ホームステイなど草の根交流につなげたい」と語った。

(写真の説明文)
台湾で志賀哲太郎の墓参りを行う「志賀哲太郎先生顕彰会」の先遣訪問団(同会提供)

志賀哲太郎先生 (台湾・台中市大甲)

  • 産経ニュース「熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む」




  • No.001
    ここは、台湾・台中市大甲にある鉄砧山風景区だクェ。
    鉄砧山風景区にある日本様式の石灯籠や、剣井・國姓廟・台湾省台中軍人忠霊祠・國軍紀念公園などの訪問を終えたところだクェ。
    これから、この近くにある志賀哲太郎先生の墓を訪れるクェ。志賀哲太郎は、「大甲の聖人」と呼ばれている人だクェ。

    この道を進んで行くクェ。


    ※「大甲の聖人」と呼ばれる 志賀哲太郎先生の詳細については、ネットなどで調べてクェ。


    ※(ご参考)
    台湾をはじめ、これまでに日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、神社跡、史跡、日本人街、歴史遺構などを訪れたクェ。その時の様子は下記リンク先を参照してクェ。


    ※(ご参考)
    日本統治時代の台湾で、台湾に尽くした日本人たち / 台湾に貢献した日本人たちの 記念碑・銅像などを訪れた時の様子は、下記リンク先を参照してクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

  • Go!Go!キョロちゃん (Vol.M-011) 日本や世界各地の日本人墓地・慰霊碑・日本人町跡・歴史遺構など まとめページ (メニューページ)


  • Go!Go!キョロちゃん (Vol.1799) 台湾に尽くした日本人たち / 台湾に貢献した日本人たち の 記念碑・胸像 など 【まとめページ (メニューページ)】




  • No.002
    あそこにY字分岐があるね。右方面に行くクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


    写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
    No.003
    Y字分岐点にある地図を見てみる。ここは右方面に行くクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.004
    坂を下っていく。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.005
    右側に、古い給水塔があるね。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.006
    坂を下っていく。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.007
    ここに、右側に入る細い道があるね。これってもしかして、タクシーで鉄砧山風景区に来る時、小高い丘の上に見えた大きなトーチカに行く道かも・・・。
    おいら、興味津々。ちょっと寄り道してそのトーチカに行ってみるクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.008
    (参考資料)

    ちなみにこれが、小高い山の上にある大きなトーチカだクェ。大甲駅からタクシーで鉄砧山風景区に向かっている時に見えたものだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.009
    (参考資料)

    小高い山の上にある大きなトーチカにズーム。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.010
    小高い山の上にある大きなトーチカに向けて歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.011
    景色がいいね!

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.012
    この下に、六角形の三角屋根の小屋が2棟みえるね。あれが志賀哲太郎先生のお墓のはずだクェ。ここからひょいっと行けそうだけど、崖なので無理だクェね。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.013
    小高い山の上にある大きなトーチカに向けて歩き中。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.014
    小高い山の上にある大きなトーチカに向けて歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.015
    小高い山の上にある大きなトーチカに向けて歩き中。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.016
    未舗装の道になったクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.017
    広~い草原って感じだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.018
    この轍を伝って進んで行く。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.019
    小高い山の上にある大きなトーチカに向けて、草むらの中を歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.020
    小高い山の上にある大きなトーチカに向けて、草むらの中を歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.021
    これは何だろう・・・。見張り小屋?
    誰もいないけどね。
    この先に行ったけど、道がなくなり、トーチカも見つからなかったクェ。残念。
    仕方ないけど引き返すクェ。

    (追記)
    後で地図で調べたところ、もう少し先に行けばトーチカがあったようだクェ。丘の上より少しだけ下った所にトーチカがあるので見えなかったようだクェ。 
    もし道があれば、もう少し探し回っていたんだけどね。道がなくなり、背丈くらいの高さの草むらだったので探すのをあきらめたクェね。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.022
    元の道に戻り中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.023
    元の道に戻って来たクェ。さらに坂道を先に下って行くクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.024
    ここに分岐路があるクェ。ここは右にUターンするような感じで右側の道に入るクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.025
    坂道をガンガン下って行く。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.026
    右側に墓地群が現れたクェ。この一帯は広大な墓地だクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.027
    広大な墓地を眺めながら下って行く。
    右に見えるあの大きな樹の向こう側に、「大甲の聖人」とよばれる志賀哲太郎先生の墓があるクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.028
    右側の墓地に入る道を探しながら道を下って行く。
    背丈くらいの雑草がたくさんあるクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.029
    あそこに、三角屋根の東屋が並んでいるね。あの手前に志賀哲太郎先生の墓があるクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.030
    東屋群の前(下)に、志賀哲太郎先生のお墓や石碑が見えるクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.031
    ズームで見てみる。
    東屋群の手前(下)に2つの石碑が見えるね。右側が志賀哲太郎先生の墓石、左側が石碑だクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.032
    「大甲の聖人」と呼ばれる 志賀哲太郎先生のお墓を観察中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.033
    「大甲の聖人」と呼ばれる 志賀哲太郎先生の石碑を観察中。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.034
    「大甲の聖人」と呼ばれる 志賀哲太郎先生のお墓を観察中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.035
    「大甲の聖人」と呼ばれる 志賀哲太郎先生のお墓を観察中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.036
    志賀哲太郎先生のお墓の左の方に、日本様式の石灯籠が見えるクェね。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.037
    日本様式の石灯籠にズーム。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.038
    志賀哲太郎先生のお墓へは、このあたりから入ると一番近道で行けそうなんだけど、道が見つからないクェ。膝から背丈くらいまである草がビッシリ茂っているクェね。足元が見えないのでその草むらを歩いて行くのは危険だクェね。穴ぼこや、深い水たまりなどがあると危険だし、毒ヘビやマダニなどがいても嫌だしね。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.039
    とりあえず、ここからお参りしておこっと。

    合掌。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.040
    志賀哲太郎先生のお墓をバックに、記念写真を撮らせていただくクェ。

    ハイ、チ~、クェッ!

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.041
    おっ、ここに右方面に入る道を見つけたクェ。行ってみるクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.042
    あの先で右にカーブしているね。方向的にはいい感じ!

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.043
    志賀哲太郎先生のお墓に向けて歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.044
    中華様式のお墓を眺めながら、志賀哲太郎先生のお墓に向けて歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.045
    あそこでまた志賀哲太郎先生のお墓方向に右カーブしているね。いい感じ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.046
    左側に石碑があるね。おいら、なぜかあの石碑が気になるクェ。あの石碑に引き付けられているような感じがするクェ。なので、あの石碑を見てみるクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.047
    この石碑を見てみる。
    文字に特徴がありすぎて読めないクェ。でも右側の行の先頭は「昭和」という文字だね。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.048
    近くで見てみる。右側に
    「昭和丁丑年九月」
    って刻まれているね。年号が干支で表されているクェ。
    調べてみると「丁丑(ひのとうし)」は、「1937年 昭和12年」だクェ。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.049
    左斜め前から見てみる。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.050
    左側面を見てみる。文字が刻まれているね。

    「昭和丙子年△月六日卒」

    って刻まれているね。
    年号部分の「丙子(ひのえね)」は、「1936年 昭和11年」だクェ。
    月の部分は・・・、う~ん、わからないクェ。中国語の月の表記方法かな?
    最後の「卒」の文字はどういう意味だろう・・・。「死亡」という意味かな?

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.051
    右側面を見てみる。文字が刻まれているね。こっちには「昭和」ではなく「明治」の元号が刻まれているクェ。

    「明治己巳年五月七日生」

    年号は「己巳(つちのとみ)」だね。読めたクェ!調べてみると「己巳(つちのとみ)」は、明治元年(1869年)になるクェね。
    一番最後の「生」の文字はどういう意味だろう・・・。「生まれ(誕生)」という意味かな? 

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)


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    No.052
    背面を見てみる。碑文がビッシリと刻まれているクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.053
    碑文の上半分にズーム。
    最後の行に「昭和十二年二月」の文字が刻まれているね。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.054
    碑文の下半分にズーム。

    結局、この石碑は何の石碑だろう・・・。日本人に関係ある石碑なのかな?

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.055
    では、先に進むクェ。
    ん!? 道はあそこで終わってそうだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.056
    この先は草むらになっているクェ。小径もなさそうだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.057
    道を探してこの周辺をうろうろ・・・。
    でも道はなかったクェ。
    草むらが高くで足元が見えないので、この先に進むのは危険だクェね。ここから志賀哲太郎先生のお墓までは、あと50mくらいなんだけどね。
    仕方ないけど、お墓に行くのはあきらめるクェ。残念・・・。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.058
    車道に戻って来たクェ。ここから志賀哲太郎先生のお墓を眺める。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.059
    では、大甲駅方面に戻るクェ。

    この石碑、用水路を渡る橋として使われているクェ。なんとなく、かわいそう・・・。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.060
    国道方面に向けて歩き中。

    鉄砧山風景区 (台湾・台中市大甲)

    No.061
    広い田んぼだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.062
    広大な墓地の中を、国道方面に向けて歩き中。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.063
    左側に「火化場」と書かれた建物があるね。火葬場だクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.064
    火葬場の案内板を見てみる。
    「停柩室」「冷凍室」「遺體(遺体)化粧室」などがあるようだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)


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    No.065
    地図を見てみる。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.066
    右側に小高い丘が見えるね。さっきおいらがトーチカを探して登った丘だクェ。結局見つけられずたどり着けなかったけどね。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.067
    ズームで見てみる。あそこに大きなトーチカがあるね。頂上から少し下がったところにあったんだね。だからさっきあの丘に登った時、見えなかったんだね。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.068
    大きなトーチカにズーム。かなり立派なトーチカだクェ。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.069
    列車の踏切を渡って行く。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.070
    線路を眺める。

    鉄砧山 (台湾・台中市大甲区)

    No.071
    国道方面に向けて歩き中。

    大甲 (台湾・台中市)

    No.072
    国道方面に向けて歩き中。
    右側に、歴史を感じさせる日本様式の家屋があるね。

    大甲 (台湾・台中市)

    No.073
    右側に、歴史を感じさせる日本様式の家屋があるね。

    大甲 (台湾・台中市)

    No.074
    右側に、歴史を感じさせる日本様式の家屋があるね。

    大甲 (台湾・台中市)

    No.075
    右側に、歴史を感じさせる日本様式の家屋があるね。

    大甲 (台湾・台中市)


    写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
    No.076
    国道に到着~。すぐのところに頂店バス停があるクェ。バスの時刻を見ると、あまり便数が無いことが分かったクェ。たぶん大甲駅(約2km)方面まで歩いたほうが早そうだクェ。

    大甲 (台湾・台中市)

    No.077
    バス停から、おいらが歩いて来た路地を眺める。あの赤い看板の2軒の食堂の間の細い道から出てきたクェね。

    大甲 (台湾・台中市)

    No.078
    大甲駅方面に歩き中。
    あそこに「鐡山豆腐」と書かれたお店があるね。豆腐屋さんかな?

    大甲 (台湾・台中市)

    No.079
    大甲駅に到着~。

    ではこれから、ここから約1km離れたところにある大甲文昌祠を訪れるクェ。この大甲文昌祠内には「志賀哲太郎紀念室」があるクェ。その志賀哲太郎紀念室を訪れるクェね。


    ※(ご参考)
    台湾をはじめ、これまでに日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、神社跡、史跡、日本人街、歴史遺構などを訪れたクェ。その時の様子は下記リンク先を参照してクェ。


    ※(ご参考)
    日本統治時代の台湾で、台湾に尽くした日本人たち / 台湾に貢献した日本人たちの 記念碑・銅像などを訪れた時の様子は、下記リンク先を参照してクェ。

    大甲 (台湾・台中市)

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    No.000-01
    (参考資料)

    【記事】 産経ニュース (2016.3.27 07:06)
    http://www.sankei.com/region/news/160327/rgn1603270022-n1.html

    (以下、原文のまま。)


    産経ニュース
    2016.3.27 07:06

    熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む

     明治から大正期にかけ、日本統治下の台湾に熊本から渡り、小学校の見習い教員(代用教員)として児童教育に一身をささげた日本人がいた。熊本県益城町出身の志賀哲太郎(1865-1924)で、台湾では「聖人」として敬愛されている。昨年生誕150年を迎えて以後、志賀の功績を後世に伝えようと、台湾、熊本の双方で顕彰活動が本格化している。(南九州支局 谷田智恒)

     志賀は慶応元年に生まれた。青年期に熊本から上京し、法律を学んだ。明治29年に32歳で台湾に渡った。

     その数年後、「教育に情熱を注ごう」と決意し、台中の北西部の街、大甲で、台湾人の子弟が通う公学校(小学校)の見習い教員になった。その後、59歳で死去するまで四半世紀にわたり、現地で子供たちの教育にあたった。

     当時は、教育への父母の理解が得られず、就学率も高くはなかった。そんな中、志賀は日曜日になると手弁当で就学適齢期の子供たちの家を訪ねて回り、根気強く登校を勧めた。

     小学校では、文具を持たない子供たちには自ら買い与えたり、学費が払えない子供には身銭を切ってでも通学させるなど、支援を惜しまなかった。

     そんな努力と誠意はやがて実を結ぶ。出席率や進学率は群を抜き、大甲から台湾各界で活躍する人材を数多く輩出した。

     志賀は台湾の教育界に多大な貢献をした。だが、台湾総督府の官吏による圧政と、台湾人の民族運動の高まりで、両者の板挟みに遭う。思い悩んだ末、大正13(1924)年、入水自殺した。

     教え子らは志賀をしのび、山の中腹に墓碑を建てた。志賀はいつしか「大甲の聖人」と呼ばれるようになった。戦後、台湾にあった日本人墓地は一カ所に移転するため取り壊されたが、地元の住民は志賀の墓を守った。

                   ×  ×  ×

     志賀の名前は長らく忘れられていたが、ここにきて熊本県の教育関係者や益城町の間で「郷土の偉人、志賀の人となりを見つめ直してはどうか」と顕彰の動きが持ち上がった。

     昨年秋、郷土史家や熊本の「日台交流を進める会」などと「志賀哲太郎先生顕彰会」を発足させた。

     台湾の高雄と熊本を結ぶ航空直行便も就航し、台湾への関心が高まった。

     顕彰の動きは生誕150年をきっかけに、活発化した。顕彰会は今年2月、先遣訪問団7人が台湾でお墓参りをした。大甲区公所(区役所)を表敬訪問し、教鞭(きょうべん)を執った小学校などゆかりの地を訪ねた。

     顕彰会事務局の折田豊生氏は「現地で台湾の街の文化的基礎を作り上げた、神様のような存在として志賀が語り継がれていることに、驚くほかなかった」と話す。

     帰国後、折田氏らは早速、志賀の一生をたどる冊子作りに取りかかった。5月28日には益城町文化会館で生誕150年の記念イベントを開催することも決めた。

     顕彰会のアドバイザー、県立大津高校元校長の白浜裕氏は「今の台湾が親日なのは志賀ら日本人教育者が一生懸命、子供たちを育てた成果だ。将来、益城町と大甲区の子供たちの交換ホームステイなど草の根交流につなげたい」と語った。

    (写真の説明文)
    台湾で志賀哲太郎の墓参りを行う「志賀哲太郎先生顕彰会」の先遣訪問団(同会提供)

    志賀哲太郎先生 (台湾・台中市大甲)

  • 産経ニュース「熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む」





  • 上記Webページに掲載した各Webサイト(リンク)の一覧だクェッ!!!。

    Link
    産経ニュース「熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む」
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    産経ニュース「熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む」




    Vol.1608
    鉄砧山の日本様式の石灯籠・鉄砧山風景区
    鉄砧山 (台中市大甲区) (台湾)


    Vol.1609
    「大甲の聖人」と呼ばれる志賀哲太郎先生の墓(鉄砧山)
    鉄砧山 (台中市大甲区) (台湾)


    Vol.1610
    「大甲の聖人」志賀哲太郎紀念室 (大甲文昌祠内)
    大甲区 (台中市) (台湾)


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