Vol.1609 「大甲の聖人」と呼ばれる志賀哲太郎先生の墓(鉄砧山) 鉄砧山 (台中市大甲区) (台湾) |
Vol.1611 能高社 (能高神社)の遺構 (台湾地理中心碑公園内・虎子山) 埔里 (南投県) (台湾) |
Vol. 1610
「大甲の聖人」志賀哲太郎紀念室 (大甲文昌祠内) ※日本統治時代の遺構 ロケ地 大甲区 (台中市) (台湾) |
写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.000-01 |
(参考資料) 【記事】 産経ニュース (2016.3.27 07:06) http://www.sankei.com/region/news/160327/rgn1603270022-n1.html (以下、原文のまま。) 産経ニュース 2016.3.27 07:06 熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む 明治から大正期にかけ、日本統治下の台湾に熊本から渡り、小学校の見習い教員(代用教員)として児童教育に一身をささげた日本人がいた。熊本県益城町出身の志賀哲太郎(1865-1924)で、台湾では「聖人」として敬愛されている。昨年生誕150年を迎えて以後、志賀の功績を後世に伝えようと、台湾、熊本の双方で顕彰活動が本格化している。(南九州支局 谷田智恒) 志賀は慶応元年に生まれた。青年期に熊本から上京し、法律を学んだ。明治29年に32歳で台湾に渡った。 その数年後、「教育に情熱を注ごう」と決意し、台中の北西部の街、大甲で、台湾人の子弟が通う公学校(小学校)の見習い教員になった。その後、59歳で死去するまで四半世紀にわたり、現地で子供たちの教育にあたった。 当時は、教育への父母の理解が得られず、就学率も高くはなかった。そんな中、志賀は日曜日になると手弁当で就学適齢期の子供たちの家を訪ねて回り、根気強く登校を勧めた。 小学校では、文具を持たない子供たちには自ら買い与えたり、学費が払えない子供には身銭を切ってでも通学させるなど、支援を惜しまなかった。 そんな努力と誠意はやがて実を結ぶ。出席率や進学率は群を抜き、大甲から台湾各界で活躍する人材を数多く輩出した。 志賀は台湾の教育界に多大な貢献をした。だが、台湾総督府の官吏による圧政と、台湾人の民族運動の高まりで、両者の板挟みに遭う。思い悩んだ末、大正13(1924)年、入水自殺した。 教え子らは志賀をしのび、山の中腹に墓碑を建てた。志賀はいつしか「大甲の聖人」と呼ばれるようになった。戦後、台湾にあった日本人墓地は一カ所に移転するため取り壊されたが、地元の住民は志賀の墓を守った。 × × × 志賀の名前は長らく忘れられていたが、ここにきて熊本県の教育関係者や益城町の間で「郷土の偉人、志賀の人となりを見つめ直してはどうか」と顕彰の動きが持ち上がった。 昨年秋、郷土史家や熊本の「日台交流を進める会」などと「志賀哲太郎先生顕彰会」を発足させた。 台湾の高雄と熊本を結ぶ航空直行便も就航し、台湾への関心が高まった。 顕彰の動きは生誕150年をきっかけに、活発化した。顕彰会は今年2月、先遣訪問団7人が台湾でお墓参りをした。大甲区公所(区役所)を表敬訪問し、教鞭(きょうべん)を執った小学校などゆかりの地を訪ねた。 顕彰会事務局の折田豊生氏は「現地で台湾の街の文化的基礎を作り上げた、神様のような存在として志賀が語り継がれていることに、驚くほかなかった」と話す。 帰国後、折田氏らは早速、志賀の一生をたどる冊子作りに取りかかった。5月28日には益城町文化会館で生誕150年の記念イベントを開催することも決めた。 顕彰会のアドバイザー、県立大津高校元校長の白浜裕氏は「今の台湾が親日なのは志賀ら日本人教育者が一生懸命、子供たちを育てた成果だ。将来、益城町と大甲区の子供たちの交換ホームステイなど草の根交流につなげたい」と語った。 (写真の説明文) 台湾で志賀哲太郎の墓参りを行う「志賀哲太郎先生顕彰会」の先遣訪問団(同会提供) |
志賀哲太郎先生 (台湾・台中市大甲) |
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No.001 |
(参考資料)台湾・台中市大甲の鉄砧山にある志賀哲太郎先生のお墓。 右側が志賀哲太郎の墓石、左側が石碑。 |
鉄砧山 (台湾・台中市大甲区) |
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No.002 |
ここは、台湾・台中市の大甲だクェ。 鉄砧山にある志賀哲太郎先生の墓参を終えたところだクェ。 そしてこれから大甲文昌祠を訪れるクェ。この大甲文昌祠内には「志賀哲太郎紀念室」あるクェね。その志賀哲太郎紀念室訪れるクェね。 大甲駅前の道を進んで行く。 ※志賀哲太郎は、「大甲の聖人」と呼ばれている人だクェ。詳細については、ネットなどで調べてクェ。 ※(ご参考) 台湾をはじめ、これまでに日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、神社跡、史跡、日本人街、歴史遺構などを訪れたクェ。その時の様子は下記リンク先を参照してクェ。 ※(ご参考) 日本統治時代の台湾で、台湾に尽くした日本人たち / 台湾に貢献した日本人たちの 記念碑・銅像などを訪れた時の様子は、下記リンク先を参照してクェ。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.003 |
交差点に到達。あそこに大きな寺院があるね。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.004 |
大甲文昌祠(志賀哲太郎紀念室)に向けて歩き中。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.005 |
あそこに「文昌祠はまっすぐ」って書いてあるね。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.006 |
大甲文昌祠(志賀哲太郎紀念室)に向けて歩き中。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.007 |
ここの交差点を右折して雁門路に入るクェ。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.008 |
あそこに「文昌祠はまっすぐ」って書いてあるね。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.009 |
交差点に到達。あそこに「文昌祠(宮)は左折」って書いてあるね。この交差点の角に志賀哲太郎紀念室のある大甲文昌祠があるクェ。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.010 |
大甲文昌祠に到着~! あそこが大甲文昌祠だクェ。 ん!?緑色の工事フェンスが張り巡らされているクェ。なんか嫌な予感・・・。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.011 |
完全に工事中だね。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.012 |
フェンスに掲示された貼り紙を見てみる。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.013 |
フェンスに掲示された貼り紙を見てみる。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.014 |
フェンスに掲示された工事案内板を見てみる。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.015 |
工事期間にズーム。 2016/10/07~2018/03/30 って書かれているね。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.016 |
フェンスに掲示された工事案内板を見てみる。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.017 |
これは祭事の案内かな? |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.018 |
工事フェンス越しに大甲文昌祠を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.019 |
工事フェンス越しに大甲文昌祠を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.020 |
工事フェンス越しに大甲文昌祠を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.021 |
工事フェンス越しに大甲文昌祠を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.022 |
工事フェンス越しに大甲文昌祠を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.023 |
工事フェンス越しに大甲文昌祠を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.024 |
左に事務室があるようだクェ。行ってみるクェ。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.025 |
大甲文昌祠の事務室前のバス停。寺院様式のバス停だクェ。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.026 |
そしてあそこが大甲文昌祠の事務室入口だクェ。事務室というよりは、工事期間中だけの仮本堂のようだクェ。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.027 |
大甲文昌祠(臨時本堂)を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.028 |
「文昌祠(宮) 点燈参拝臨時行館」って書いてあるね。やはり工事期間中だけの臨時の本堂だクェ。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.029 |
大甲文昌祠(臨時本堂)を観察中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.030 |
大甲文昌祠(臨時本堂)を観察中。 では、中に入ってお参りするクェ。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.031 |
大甲文昌祠(臨時本堂)をお参り中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.032 |
大甲文昌祠(臨時本堂)をお参り中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.033 |
大甲文昌祠(臨時本堂)をお参り中。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.034 |
大甲文昌祠(臨時本堂)をお参り中。 寺院のスタッフに志賀哲太郎紀念室について尋ねたところ、「今は工事中なので志賀哲太郎紀念室は閉鎖している・・・。ごめんなさいね・・・。」とのことだクェ。残念・・・。 |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.035 |
仕方ないクェね。 では、大甲文昌祠(臨時本堂)をバックにして、記念写真を撮らせていただくクェ。 ハイ、チ~、クェッ! |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.036 |
次は、工事中の正門前で、もう一枚、 ハイ、チ~、クェッ! |
大甲文昌祠 (志賀哲太郎紀念室) (台湾・台中市大甲) |
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No.037 |
では、大甲駅に戻るクェ。 警察署の前を歩き中。白バイというか白スクーターが並んでいるね。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.038 |
大甲駅に到着~。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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No.039 |
この列車に乗って、台中駅に向かうクェ。 お疲れさまでした~!!! ※(ご参考) 台湾をはじめ、これまでに日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、神社跡、史跡、日本人街、歴史遺構などを訪れたクェ。その時の様子は下記リンク先を参照してクェ。 ※(ご参考) 日本統治時代の台湾で、台湾に尽くした日本人たち / 台湾に貢献した日本人たちの 記念碑・銅像などを訪れた時の様子は、下記リンク先を参照してクェ。 |
大甲 (台湾・台中市) |
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写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!! No.000-01 |
(参考資料) 【記事】 産経ニュース (2016.3.27 07:06) http://www.sankei.com/region/news/160327/rgn1603270022-n1.html (以下、原文のまま。) 産経ニュース 2016.3.27 07:06 熊本の教育者・志賀哲太郎…台湾で慕われる「聖人」の顕彰進む 明治から大正期にかけ、日本統治下の台湾に熊本から渡り、小学校の見習い教員(代用教員)として児童教育に一身をささげた日本人がいた。熊本県益城町出身の志賀哲太郎(1865-1924)で、台湾では「聖人」として敬愛されている。昨年生誕150年を迎えて以後、志賀の功績を後世に伝えようと、台湾、熊本の双方で顕彰活動が本格化している。(南九州支局 谷田智恒) 志賀は慶応元年に生まれた。青年期に熊本から上京し、法律を学んだ。明治29年に32歳で台湾に渡った。 その数年後、「教育に情熱を注ごう」と決意し、台中の北西部の街、大甲で、台湾人の子弟が通う公学校(小学校)の見習い教員になった。その後、59歳で死去するまで四半世紀にわたり、現地で子供たちの教育にあたった。 当時は、教育への父母の理解が得られず、就学率も高くはなかった。そんな中、志賀は日曜日になると手弁当で就学適齢期の子供たちの家を訪ねて回り、根気強く登校を勧めた。 小学校では、文具を持たない子供たちには自ら買い与えたり、学費が払えない子供には身銭を切ってでも通学させるなど、支援を惜しまなかった。 そんな努力と誠意はやがて実を結ぶ。出席率や進学率は群を抜き、大甲から台湾各界で活躍する人材を数多く輩出した。 志賀は台湾の教育界に多大な貢献をした。だが、台湾総督府の官吏による圧政と、台湾人の民族運動の高まりで、両者の板挟みに遭う。思い悩んだ末、大正13(1924)年、入水自殺した。 教え子らは志賀をしのび、山の中腹に墓碑を建てた。志賀はいつしか「大甲の聖人」と呼ばれるようになった。戦後、台湾にあった日本人墓地は一カ所に移転するため取り壊されたが、地元の住民は志賀の墓を守った。 × × × 志賀の名前は長らく忘れられていたが、ここにきて熊本県の教育関係者や益城町の間で「郷土の偉人、志賀の人となりを見つめ直してはどうか」と顕彰の動きが持ち上がった。 昨年秋、郷土史家や熊本の「日台交流を進める会」などと「志賀哲太郎先生顕彰会」を発足させた。 台湾の高雄と熊本を結ぶ航空直行便も就航し、台湾への関心が高まった。 顕彰の動きは生誕150年をきっかけに、活発化した。顕彰会は今年2月、先遣訪問団7人が台湾でお墓参りをした。大甲区公所(区役所)を表敬訪問し、教鞭(きょうべん)を執った小学校などゆかりの地を訪ねた。 顕彰会事務局の折田豊生氏は「現地で台湾の街の文化的基礎を作り上げた、神様のような存在として志賀が語り継がれていることに、驚くほかなかった」と話す。 帰国後、折田氏らは早速、志賀の一生をたどる冊子作りに取りかかった。5月28日には益城町文化会館で生誕150年の記念イベントを開催することも決めた。 顕彰会のアドバイザー、県立大津高校元校長の白浜裕氏は「今の台湾が親日なのは志賀ら日本人教育者が一生懸命、子供たちを育てた成果だ。将来、益城町と大甲区の子供たちの交換ホームステイなど草の根交流につなげたい」と語った。 (写真の説明文) 台湾で志賀哲太郎の墓参りを行う「志賀哲太郎先生顕彰会」の先遣訪問団(同会提供) |
志賀哲太郎先生 (台湾・台中市大甲) |
Vol.1609 「大甲の聖人」と呼ばれる志賀哲太郎先生の墓(鉄砧山) 鉄砧山 (台中市大甲区) (台湾) |
Vol.1610 「大甲の聖人」志賀哲太郎紀念室 (大甲文昌祠内) 大甲区 (台中市) (台湾) |
Vol.1611 能高社 (能高神社)の遺構 (台湾地理中心碑公園内・虎子山) 埔里 (南投県) (台湾) |
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