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Vol.1365
【花蓮をサイクリング】(6) 花蓮港山林事務所 (菁華林苑)
花蓮市 (台湾)


Vol.1367
賀田組拓殖部従業員の墓 (寿豊郷呉全公墓内)
寿豊郷 (花蓮県) (台湾)



おいらたち好奇心旺盛なキョロちゃんが、いろいろなところを訪れたクェ!!!


Vol. 1366
日本人移民村・賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)
ロケ地
寿豊郷 (花蓮県) (台湾)




写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
No.001
ここは、台湾の花蓮市だクェ。
これから「日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)」と「賀田組拓殖部従業員の墓」を訪れるクェ。これらの場所へは、ここ花蓮駅前からこの301番系統「東華大学」行きのバスに乗って行くクェ。

※「日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑」「賀田組拓殖部従業員の墓」については、ネットなどで検索してクェ。参考までに、おいらがネットで見つけた資料は、このページの最後(一番下)に掲載しておくクェ。


※(ご参考)
台湾をはじめ、これまでに日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、神社跡、史跡、日本人街などを訪れたクェ。その時の様子は下記リンク先を参照してクェ。

花蓮市 (台湾・花蓮県)

  • Go!Go!キョロちゃん (Vol.M-011) 日本や世界各地の日本人墓地・慰霊碑・日本人町跡・歴史遺構など まとめページ (メニューページ)





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    No.002
    301番系統バスの時刻表。
    1時間に1本程度しかないね。休日は便数が減るようだクェ。

    花蓮市 (台湾・花蓮県)

    No.003
    301番系統 東華大学行きのバスがやってきたクェ。このバスに乗るクェ。

    花蓮市 (台湾・花蓮県)

    No.004
    バスに乗って移動中。

    花蓮 (台湾・花蓮県)

    No.005
    大きな川を渡って行く。

    花蓮 (台湾・花蓮県)

    No.006
    建物もなくなくなったクェ。すごい田舎を走っているクェ。

    花蓮 (台湾・花蓮県)

    No.007
    約30分の乗車で、最寄りバス停の「大学路口」に到着。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)


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    No.008
    大学路口のバス停を観察中。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)


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    No.009
    大学路口のバス停を観察中。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.010
    大通り向かい側の大きなビルの前に、バス停の標識があるね。帰りはあそこからバスに乗るクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.012
    こっちのバス停の前のビルを見上げる。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.013
    では、進行方向方面に歩いて行くクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.014
    大通りを渡って行く。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.015
    大通りを渡ったクェ。
    そこに左の路地に入る分岐があるね。そこを左折して路地に入るクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.016
    入って行く路地の名前は「呉全路」だクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.017
    左折するとすぐにY字分岐路が現れたクェ。ここは、直進(この写真でいえばナナメ右方向)に行くクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.018
    この道(呉全路)を歩いて行く。周りの家のイヌたちが吠え始めたクェ。頼むから来ないでクェね!

    と思っていたら、狂ったように吠えまくっている犬が数匹、走ってやってきたクェ!!!
    おいら、猛ダッシュ!
    何とか振り切ることができたクェ。台湾では、飼い犬も鎖につながれていないことが多いクェ。また、野犬も結構いるクェ。なのでとても気を付けないと危ないクェね。
    帰りはこの道は通りたくないクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.019
    どんどん進んで行く。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.020
    大通りの分岐から300mくらい歩いて行くと、あの先にT字路が見えてきたクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.021
    T字路に到着。この先は大きな墓地だクェ。このT字路を右折するクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.022
    左手は大きな墓地「寿豊郷呉全公墓」だクェ。
    「賀田組拓殖部従業員の墓」は、この墓地の中にあるクェ。でもまずは、この近くにある「日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑」を先に訪れるクェ。その後、ここに戻ってきて「賀田組拓殖部従業員の墓」を探すクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.023
    大きな墓地「寿豊郷呉全公墓」の横を歩いて行く。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.024
    大きな墓地「寿豊郷呉全公墓」の横を歩いて行く。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.025
    ここは何だろう・・・。老人ホームかな?

    花蓮県寿豊郷 (台湾)


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    No.026
    老人ホームの前を歩いて行く。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.027
    田舎の道を歩き中。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.028
    あそこに交差点があるクェ。あの交差点を左折するクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.029
    路地の名前を見てみる。「呉全路」。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.030
    今歩いてきた道も「呉全路」。なぜか同じ名前だクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.031
    交差点の角にある標識類を見てみる。
    大きなコンクリートのモニュメントには、この村の名前「呉全」って書いてあるね。(右書きになっている。)

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.032
    あっ、ここに「呉全城開拓紀念碑」って書いてあるね。おいらが訪れる「日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑」のことだクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.033
    この交差点の角には、「福徳廟」という中華寺院もあるクェ。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.034
    路地を進んで行く。あの電柱の先に、左に入る路地があるね。

    花蓮県寿豊郷 (台湾)

    No.035
    左に入る路地に到着。
    左側を見ると、あの先に歴史を感じさせる石碑が見えるクェ。あれが目的地の「日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)」のはずだクェ。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.036
    石碑に近づいて行く。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.037
    左側には廃墟があるクェ。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.038
    石碑に近づいて行く。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.039
    石碑に近づいて行く。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.040
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)に到着!

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.041
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.042
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.043
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.044
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)


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    No.045
    碑文にズーム。
    風化して読みにくいクェね。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.046
    右ナナメ前から見てみる。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.047
    右側面を見てみる。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.048
    背面を見てみる。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.049
    左ナナメ前から見てみる。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.050
    合掌。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.051
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)をバックに、写真を撮らせていただくクェ。

    ハイ、チ~、クェッ!

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.052
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.053
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.054
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.055
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.056
    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑)を観察中。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

    No.057
    では、次の場所に向かうクェ。次は、さっき通った墓地「寿豊郷呉全公墓」内にある「賀田組拓殖部従業員の墓」を訪れるクェ。

    お疲れさまでした!!!


    ※(ご参考)
    台湾をはじめ、これまでに日本や世界各地の日本人墓地、日本人慰霊碑、神社跡、史跡、日本人街などを訪れたクェ。その時の様子は下記リンク先を参照してクェ。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

  • Go!Go!キョロちゃん (Vol.M-011) 日本や世界各地の日本人墓地・慰霊碑・日本人町跡・歴史遺構など まとめページ (メニューページ)





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    No.000-01
    (参考資料 1-1)

    ※ネットで見つけたウェブサイトより。
    URL: http://p.booklog.jp/book/98946/page/2675474
    (以下、原文のまま)


    台湾初の日本人移民村・賀田村 開拓記念碑&賀田組拓殖部従業員の墓(花蓮県壽豊郷)(その1)

    「台湾で初めての日本人移民村は?」という問いに、台湾通の方のほとんどが「花蓮・吉野村」と答えるでしょう。しかし、それは間違いです。
    正解は「花蓮・賀田村」です。
    吉野村は1910年開村の国営の日本人移民村。一方、賀田村は1906年5月開村の民間の日本人移民村です。
    賀田村を開村したのは、山口県萩市出身の実業家、賀田金三郎氏です。

    彼は、後藤新平民政長官との約束を果たすべく、1899年、それまで勤めていた大倉組を辞め賀田組を設立、妻の賀田道子さんと共に、「不毛の地」と言われていた花蓮にやって来ました。当時の記録によると、民間人で初めて花蓮の地に足を踏み入れたのは賀田夫婦だったそうです。賀田は花蓮に入る前に、台湾総督府に勤務していた新渡戸稲造氏と相談し、東台湾に適した農作物として、赤サトウキビの栽培と黄色煙草の葉の栽培を選び、花蓮到着後早速栽培を開始しました。同時に、灌漑用水の整備、トロッコ鉄道の整備、道路の整備等々、移民達が生活をする上で必要なインフラ整備も行いました。
    さらに、花蓮の地に産業を興す必要があると考えた賀田は、製糖工場(賀田製糖所=現在のパール印のお砂糖の前身)、中央山脈に自生している楠を使って樟脳をつくる製脳工場を作りました。

    1895年4月17日に日本は台湾を統治しましたが、そのわずか3か月後の7月に、賀田は大倉組台湾総支配人として台湾へ渡って来ました。
    その後、児玉源太郎総督、後藤新平民政長官が行った匪賊の帰順、台湾日日新報の創設、台湾銀行の創設、台湾貯蓄銀行の創設等々、台湾の近代化を陰で支え、真の功労者として活躍しました。さらに、佐久間左馬太総督が特に、頼りにしていたのもこの賀田金三郎だったのです。

    賀田金三郎については、現在、筆者は書きURLにて連載を行っていますので、お時間があればお読みいただければ幸いです。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)

  • (参照元)

    「台湾初の日本人移民村・賀田村 開拓記念碑&賀田組拓殖部従業員の墓(花蓮県壽豊郷)]





  • 写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
    No.000-02
    (参考資料 1-2)

    ※ネットで見つけたウェブサイトより。
    URL: http://p.booklog.jp/book/98946/page/2675474
    (以下、原文のまま)


    台湾初の日本人移民村・賀田村 開拓記念碑&賀田組拓殖部従業員の墓(花蓮県壽豊郷)(その2)

    さて、この賀田金三郎が開村した賀田村。現在の花蓮県壽豊郷平和村、志學村一帯が賀田村でした。また、現在の東華大学は賀田農園があった場所になります。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)


    写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
    No.000-03
    (参考資料 1-3)

    ※ネットで見つけたウェブサイトより。
    URL: http://p.booklog.jp/book/98946/page/2675474
    (以下、原文のまま)


    台湾初の日本人移民村・賀田村 開拓記念碑&賀田組拓殖部従業員の墓(花蓮県壽豊郷)(その3)

    この賀田金三郎の功績を讃える石碑が「開拓記念碑」です。台湾における日本人の歴史の始まりの地なのですが、残念ながらこの地を訪れる日本人はほとんどいません。

    最近は大勢の台湾通の方がおられますが、台湾を語るならば、まずは、この地を訪れ、賀田金三郎について知り、賀田の残したものが、その後の台湾の発展にどれほど大きな影響を与えたかを知った上で、台湾を語って欲しいというのが筆者の思いです。

    賀田は原住民にも苦しめられました。大切な自分の従業員・村人を原住民達によって殺害されました。
    当時、賀田金三郎が社長を務める賀田組は、花蓮威里社區内(現在の秀林郷佳林村)に製脳事務所を設けていた。この付近一帯で樟脳の原料となるクスノキの伐採を行っていました。
    しかし、この付近一帯には、太魯閣族が住んでいた。彼らには、首狩りの習慣があったのです。
    賀田組は東台湾開発を始めた当初からこの太魯閣族からの襲撃に備え、明治36年(1903年)、賀田金三郎より台湾総督府に対し、銃3000丁、弾薬30万発、大砲4門を購入し、各地で警備にあたっていた。と、言うのも、当時、東台湾では警察官が不足しており、自分達で警備する他、方法がなかったのです。
    この賀田組の警備を担当していたのが、日本側に味方する太魯閣族(外太魯閣族と呼ばれていた)でした。

    賀田組は外太魯閣族との間で、威里社区をはじめ7つの社区と土地の賃貸借契約を締結していた。契約内容によると、賃料は、毎年年末に、200円を支払うというものになっていました。しかし、契約観念のない太魯閣族は、賀田組に対し、外太魯閣族を代表して、威里社区の長老より夏の時点で、賃料を支払ってほしいと訴えてきたのです。
    賀田組は熟慮したうえで、とりあえず半分の100円を、威里社区の長老に支払い、皆と分けて欲しいと告げたのです。

    しかしこの長老は、自分達の親族だけでその100元を分け、他の社区への分配をしなかった。これに腹を立てた他の社区が、長老の親族を殺害するという事件が発生しました。
    この事件を受け、当時の花蓮行政のトップであった花蓮支廰長の大山十郎警部は、賀田組と協議を行い、威里事務所の閉鎖とクスノキ伐採の中止を決定、その旨を外太魯閣族に通達した。何故、「中止」を決定したのか。先の威里社区長老親族殺人事件の後、他の社区の外太魯閣族の間では、賀田組に対し、逆恨みをするものがいるとの情報が流れてきたからである。

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)


    写真をクリックすると拡大写真が現れるクェッ!!!
    No.000-04
    (参考資料 1-4)

    ※ネットで見つけたウェブサイトより。
    URL: http://p.booklog.jp/book/98946/page/2675474
    (以下、原文のまま)


    台湾初の日本人移民村・賀田村 開拓記念碑&賀田組拓殖部従業員の墓(花蓮県壽豊郷)(その4)

    威里社区からの全面撤退決定直後の7月30日に、西拉丘社(現在の實仔眼社)で2名の日本人の木こりが外太魯閣族によって殺害、首狩りに遭いました。さらに、翌日31日には、遮埔頭(現在の康楽村)で5名の日本人きこりが殺害、首狩りに遭いました。

    この2件の日本人殺害事件で、大山十郎警部は、直ちに、賀田組威里事務所に残っていた従業員全員の避難を命じ、自らも、救出のために威里事務所へと向かった。
    明治39年(1906年)8月1日、大山警部、阿部巡査、賀田組職員の山田海三、喜多川貞次郎及び25名の職員が避難を始めたその時、突然、外太魯閣族の集団が彼らを奇襲、全員の首を狩って殺害しました。(威里事件)

    記録によれば、一度にこれだけの一般人が太魯閣族によって殺害されたのは、日本が台湾を統治した1895年以降、初めての悲劇だったそうです。

    「威里事件」は、賀田金三郎にとって、大切な従業員を失ったばかりか、その後の移民事業に大きな影を落とす事となり、結果的に、花蓮の産業発展を願っていた彼の願いをも根幹から揺るがす大事件だったのです。
    また、賀田村の移民達にも大きな動揺が走ったことは間違いないことでした。

    この事件を受けて賀田金三郎は時の台湾総督であった佐久間左馬太に直訴状を出し、それがきっかけで、佐久間左馬太は、1914年5月31日、3か月に渡る戦争の末、太魯閣族を討伐したのです。(2万人の死者を出す大惨事となりました。太魯閣の戦没と呼ばれています。戦場は、タロコ渓谷一帯)

    この威里事件の犠牲者である賀田組拓殖部従業員のために、賀田はお墓を建立しています。現在は参拝する人もなく、呉全公墓にひっそりと建っています。筆者は、命日とお盆、お彼岸には参拝をさせて頂いております。
    また、2014年2月18日、賀田金三郎が門徒であった曹洞宗の僧侶の方々にお願いし、戦後初の法要も執り行いました。

    場所が非常に判りにくい場所にあるため、もしも参拝をご希望される方は、筆者まで一報頂ければご案内させて頂きます。

    結局、賀田村は、この原住民達の襲撃とマラリアの横行により、わずか4年半で村人が誰も居なくなってしまい、閉村となってしまいました。しかし、賀田金三郎が花蓮の地に残した功績は大きく、今でも、花蓮開拓の父として花蓮の人達は彼の功績を讃えています。


    賀田金三郎物語:http://www.ekidensha.com/category/kada

    賀田村:花蓮県壽豊郷志學村・平和村一帯
    台湾鉄道志學駅下車 徒歩

    開拓記念碑:花蓮県壽豊郷平和村呉全
    賀田組拓殖部従業員の墓:花蓮県壽豊郷平和村呉全公墓内

    日本人移民村・ 賀田村開拓記念碑 (呉全城開拓記念碑) (台湾・花蓮県寿豊郷)


    上記Webページに掲載した各Webサイト(リンク)の一覧だクェッ!!!。

    Link
    Go!Go!キョロちゃん (Vol.M-011) 日本や世界各地の日本人墓地・慰霊碑・日本人町跡・歴史遺構など まとめページ (メニューページ)
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    (参照元)

    「台湾初の日本人移民村・賀田村 開拓記念碑&賀田組拓殖部従業員の墓(花蓮県壽豊郷)]




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    寿豊郷 (花蓮県) (台湾)


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